2007.05.29

漂泊すれば眠れない_6

 視線の遥か先に見える格子模様が目に入った途端、目眩がしてまた目を閉じる。
 みずがのみたい。
 今度は天井を見ずに済むように、頭をそっと上げて閉め切った襖の方に目をやる。障子から漏れる光の白さは頭痛をより増幅させる。
 畳の上に置いた掌に全身の力を込めて、藁のように覚束ない身体を布団から離す。脚が引き攣ってうまく歩けない。ぶつかるように身体を預けた襖が騒がしい音を立てた。開けようにも、汗ばむ指先は縁の上で何度も滑る。思い通りにならないもどかしさに、目が熱くなる。涙は出ない。
 みずがのみたい。開いたままの唇がひりつく。舌はまるで砂に浸食されていくように軋む。
 転がるようにしてようやく台所にたどりつくと、新八は震える手で湯呑みを取り、蛇口をどうにか捻って水を注いだ。小さな水音と、透明の液体の撥ねるさまを見ただけで全身の力が弛緩しそうになる。脚の痙攣はなかなか止まらない。その場に崩折れそうになるのを、皮肉にも途方もない渇きがなんとか抑制している。やがて溢れるほどの水を湯呑みに入れると、新八はこぼれるのも構わずそれに口を寄せた。喉の奥から広がる、強い渇きが癒されていく心地よさを待ち焦がれていた新八を襲ったのは、もはや馴染みのものとなった激しい吐き気だった。大きく咳き込もうとして、身体をくの字に折り曲げると、もう立ってはいられなかった。
 手負いの獣の咆哮じみたこの嗚咽は、本当に自分が発しているのだろうか、とどこか他人事のようにそんなことを思う。
 床の上に広がる暗い染みを見ていると、再び強い目眩が忍び寄ってくるのを感じた。疲れ切った新八はそれに抵抗することなく、目を閉じて床についた腕の力を抜いた。

 新八、と自分を呼ぶ低い囁き声とともに、何か冷たいものが右の頬に何度も当てられているのに気付いて、新八は目を閉じたまま眉を顰めた。
 意識の戻りとともに感覚が全身に行き渡ると、眠っていた灼けつくような渇きが獣のように暴れ出す。逃げ場のない苦痛に身を捩らせると、再び頬をひたひたと叩かれる。今度はさっきよりも強くて、新八は鬱陶しさに小さくうめいた。
 やめろよ、起きたくないんだ。どうせ何もできないんだから。
 新八はいよいよかたく瞼を閉じて、身体の自由を奪っている何者かから逃れようと、自由な方の腕を力なく振りまわした。それはすぐに誰かの顔にぶつかったようだったが、その声は全く揺るぎを見せなかった。
「新八、目ェ開けろ」
 決して大きくはないその声に、新八ははっとして目を開けた。しかし、すぐ目の前でこちらに傾けられているものがさっきの湯呑みだと気付いて、新八は恐ろしいものでもみるかのように首を振って抵抗した。
「いやだ」
「もう一回だけ試してみろ。夏バテだって言い張ってたの、お前だろ」
 揶揄のかけらもない口調に罵倒で返そうと開いた口元に、湯呑みの縁が押し当てられたと思ったら、一気に水を流し込まれて、新八は顔を背けて大きくむせた。咳き込むたびに胸の奥がぜいぜいといやな音を立てて痛む。
 こんなに台所を水浸しにしたなんてばれたら、あとでお登勢さんに絶対叱られる。
 開けておくのも億劫な目を閉じると、暗闇に紫煙をくゆらせるお登勢が(いつもの倍も)恐ろしい顔で何かを怒鳴り散らしている姿が浮かんでは消えていく。 
 だから、誰かが耳元で溜息をついて、やっぱダメか、と呟いたことも、頬を掴まれてぐったりした頭を無理矢理上向かせられたことも、新八は全て夢のなかの出来事のようにしか思っていなかった。喉の奥を滑り落ちていく冷たい感触に気付くまでは。
 ごくり、と自分の喉が鳴ってからたっぷり数秒後、何の拒絶反応も起きないことを確認してから、それでも何が起きたのかよくわからないまま、新八は目の前の銀時の顔を見上げた。
「よお、大丈夫か」
 銀時の口調は、まるで新八が重い買い物袋をぶら下げて往来を歩いているのに出くわしたときのように素っ気なかった。混乱して視線を泳がせた途端に、銀時の持っている湯呑みに気付く。今、一瞬で喉の熱が引いたことの意味を悟るのと、その熱が再び疼き出すのを感じるのはほぼ同時だった。
 飲めた。
 先ほどまではあれほど恐ろしかった小さな湯呑みが、今では何物にも替え難く思えて、新八は銀時の腕の中から起きあがってそれをひっつかむと、一気にあおった。
 少なくとも、あおろうとした。
「………っ…えう…っ」
「あー。ったく、せっかく飲ませたのをまた吐いちまって」
 新八は呆けたような顔をゆっくりと上げて銀時を見た。
「なんで?」
 震える手は無意識に銀時の寝間着の肩を掴んでいた。
<続く>

なんつうところで(笑)あと少しでしたが今夜はこれまで!